旅の人

ヨソモノ、バカモノ、若者+α

 まちづくりの講演会で「地域コミュニティを改革するのは『ヨソモノ、バカモノ、若者』と言いまして」みたいな話がありますよね。
 しゃらくせえ、とまでは申しませんが「ふ~ん」とは思います。都会の肩書を引っさげたおじさまが高いところでこれを言うのはさぞかし気持ちが良かろうね。このド田舎を何とかせねばと志高く立ち上がるお若い方をつかまえて、バカモノ、ヨソモノとはずいぶんと歯に衣着せぬおっしゃりよう。
 最近ではここでいう『若者』に『女性』も加配されまして、しかもその『女性』とは産みつつ働く生命体のことを指す。おっさんみたいなオバハンの受付は募集前から終了です。

えんじょもん

 「えんじょもん」とは金沢弁で、ヨソモノのことを言う。あえて漢字で書くなら「遠所者」とでもなるだろう。一般的には、見た目だけでもやわらかく「えんじょもん」と表記する。
 金沢は北陸新幹線開業で全国的にフィーチャーされる前からたびたびテレビドラマの舞台になって、「えんじょもん」は方言業界(そんな業界があるのかは知らないが)では、それなりにメジャーな言葉と思われる。底意地の悪い姑や古参従業員が若旦那の嫁に向けて「あんた、えんじょもんやから、分からんげんて!」と言い放つのが、それらのドラマの通例である。
 だがしかし、ご安心ください。実際の金沢っ子はあそこまで意地悪ではありません。いくらなんでも本人を目の前にして「えんじょもん!」とか言わないですよ。金沢の人は多少どんくさいところもありますが、決して馬鹿ではありません。江戸時代200年余にわたり外様ながらに加賀百万石を守り抜いてきたのは伊達じゃないです。前田です。

城下町版ガラスの天井

 運命というのは数奇なもので、わたし(前野芽理)は愛知県に生まれ、センター試験の結果の波に押し流されて石川県金沢市に漂着し、そのまま居ついて30年。
 こんなわたしが町内会だのPTAだの市民団体だの、地域人として10年以上活動し続けているのは奇特というより奇怪といえよう。町内会長とPTA役員を兼任していた時分には、副町会長さんから「あんた、死ぬぞ」とあきれられたものである。

 身寄りのない地で生き抜く便宜上、この金沢で過剰に厚かましく生きてきたけれど、実際問題「えんじょもんのくせに」と面と向かって言われたことはない。おそらく陰口ですら、そうは言われてないような。あのテンションはおかしいんじゃないのとか言い方がキツすぎるよねとかなら普通にあるかもしれないけれど、それ、事実ですから。

 自分としては降り注ぐ役割だけを粛々と演じてきたつもりである。
 粛々とはいいながら、やむを得ず大なり小なりやり合うこともあるにはあった。

 小学校の統合に関わったときには、母校愛と縄張り意識のプレミアムブレンドになっていた地元民の皆さまのご意向をいい意味でスルーして、前のめりに話を進めた。これが町会連合会のシニアからは案外と評判が良く、とてもかわいがってもらった。どうも地元民の口からは言いづらいことをわたしがペロッと言ってのけるのは、都合がよかったようである。
 一方で、同じPTA仲間であるはずのP役員の中には、そのようなわたしの振る舞いが癪に障る者もいたようだった。統合にまつわる小さないざこざは、全部前野が悪いみたいになっていた。前の小学校でやってた行事を続けるだの、役員閻魔帳(過去に役員をやった人を記録する名簿。まだ役員をやってない人を見つけるために使う)を引き継げだの、その他いろいろ廃すべき悪習を廃止したのはもちろんわたし一人の力ではないのであるが。
 前野黒幕説はそれなりに広まっていたようで、偶然ばったり道で出会ったママ友に「私はあなたを信じてる。頑張って」「いろんなこと言う人がいるけど、気にしちゃダメよ」と唐突に励まされたものである。

 幼稚園は、長女、次女、三女・四女と三つの園を経験し、その三つの園のことごとくで経営方針の転換期にぶち当たった。先生方は精一杯に保育に励んでくださったものの、体制が変わり業務手順も変わったことで、どうしても今まで通りの園生活とはいかないことが多かった。
 ここから、ベテラン保護者の有り余る幼稚園愛と、時代に適応したい保護者会本部役員、不安に駆られる新米保護者の、三つ巴の争いが勃発。見かねて「だったら保護者会やめたらどうですか」を3回言って、1園が本当に保護者会無期休会になった。休会こそ免れたものの、パンドラの箱のふたを開けたカドで卒園するまで園長夫妻に嫌な顔をされ続けたりもした。
 ちなみに、保護者会無期休会した園は、保護者の声を反映して決めたのではないらしい。幼稚園に新しく雇われた教育コンサルの指針によるものだったと、後から風の噂で聞いた。その園は保護者休会後、毎年のように値上げした。

 町内会では、わたし史上最大級によく怒鳴り合ったものである(文字通り怒鳴った)。
 わたしの先代の町会長は当時50代の半ばほどで、若さもあって、とてつもなくやる気に満ちていた。実際とても優秀だった。独居や老老世帯の見守り制度を構築し、町会まつりや慰安旅行も年ごとに大々的になるはいいが、世話係の役員ヘトヘト、お客様根性の高齢者ばかりが集まってしまい、まさにエントロピー増大。
 その町会長の任期が切れると、当然ながら次の成り手がいない。これ以上オッサン連中に町会を仕切られたらたまったものではない。「ほかにやる人がいなかったら、どうしてもというのであれば、わたしがやってもいいですよ」と言ったら、本当にわたしにお鉢が回ってきた。
 引継ぎ会合では、先代町会長が「俺が始めたあれも続けろ、これもやれ」とあまりにも横柄なので「言うのは自由ですが、やると決めるのはわたしたち次の執行部ですけどね」とさらりとお返事したところ「俺に理想を語るなというのか!」と大音声で怒鳴られた。仕方がないから「自分の理想は自分で実現してくださいね!」と怒鳴り返した。その場には、ほかに2名旧福会長のおじさんが同席していたが、わたしをかばう者はゼロ。わたしが次に町会長やると言ったとき、にこにこして何度もありがとうと言ったよね、あなたたちね。

 この手の話は枚挙にいとまないのであるが、過ぎればすべて佳き思い出。わたしもずいぶんいい加減な態度で近隣住民に接してきたのも動かぬ事実であります。どちらかというと私の方がろくでもなさでは秀でていた気もせぬでもない。
 とはいいながら、ときどき思ったものである。

 たとえばわたしが老舗の跡取り娘だったら、同じことして、こんな言い方されたかな?

見てくれている人はいる

 当時、金沢では託児ルームが次々と開設していた。
 保育園の一時保育もあるにはあるが、数日前までの事前予約が必要だったり、希望の園に入れなかったり、利用のたびにびっちり書類を書いたりと、何かと手間が多かった。
 三女が生まれた頃に新しく開設された託児ルームは書類が簡便で、予約も融通が利き、土日祝日でもルームが入っている施設が開館していれば託児できた。保育園と違ってレギュラー園児がいないので、うちの子たちはのびのびと過ごせていたようだ。夕方に迎えに行くと、三女四女はわたしの顔を見た瞬間に「帰りたくない」とワーッと泣き出したものだ。

 保育ルームの先生とは、某大学主導の自閉症の市民団体(これについては今度また書きます)でお世話になっていた。大学先生の肝煎りで立ち上げた科研費目当ての奇妙な会で、わたしはそこの名ばかり会長としていわれなき苦労をしょい込んでいたのであった。
 先生は、そんなわたしを常に気にかけてくださっていた。あるとき、託児の前か後、少し時間があって先生とお話させていただいた。

 託児ルームの運営団体は金沢の託児業界では草分け的存在である。まだ法整備も十分にされているとは言えないような時代、民の力でゼロから立ち上げ、一歩一歩と積み上げてこられたとのこと。その託児ルームができた当時、その柔軟な対応ぶりはまさに画期的であった。
 シングルファーザーのパパさんが、日曜日にお子さんを預けに来て「一人でゆっくり休めるのは本当に久しぶり」と涙を流していたそうだ。

あのときの私は『生きていた』

 あの日、先生は「あなたもほんとによく頑張るよね」と無駄に張り切るわたしの労を静かに静かにねぎらってくださった。そして、ぽつりぽつりと先生ご自身のことをお話になったのだ。

「私の子供は重度障害児だったの。私は保育士として働きながら育児をしていたから、毎日とても大変だった。毎日必死で生きていた。
 子供は結局病気で死んでしまった。とっても悲しかったけど、私はすごく楽になったの。
 団体を立ち上げたときも、行政に頼まれてこのルームを立ち上げたときも、そりゃ大変だったわよ。だけど、後にも先にも、子育てをしていたあの時代より大変なときはなかった。
 今、このルームも軌道に乗ってきて、ちょっと一息つけるようになったの。でもね、こうしてお茶を飲みながら、ときどきふっと思うのよ。

 子供の世話に必死だったときの私って、純粋に生きていたんだな、って。

 確かに今の私の方が、時間もお金も余裕があるし、幸せなんだと思うのよ。だけど、今の私は、あのときの自分ほど純粋に生きているんだろうか。育児と仕事できりきり舞いしていたあのときの方が、今よりずっと『生きていた』。

 つらかったけど、大変だったけど、私はあの子に生きていてほしかった。障害があってもいい、一緒に生きていたかった。
 今のお母さんたちは、自分の子供がほかの子と違うとすごく気にするでしょう。私、思うの。『生きていればいいじゃないの』って。足の一本ぐらいなくたって、一生ほかの子供みたいに笑いかけたりしてくれなくても、生きててくれればいいじゃない?」

頑張れば頑張るほど「まだ足りない」と言われて

「私も前野さんと同じで、ヨソモノなのよ。たまたま主人の都合でここに来て、金沢で子育てする人たちのために働いているけれど、正直、なんでここまで私がするのと思わなくもないわよね。地元で生まれて生きてる人は、親や親戚に子育てを助けてもらって、仕事のことも助けてもらって、もっとのびのびやってるじゃない?

 でもね、もう、そういうことを考えるのはやめたの。
 『人生は旅である』っていうでしょう。私は今、人生の旅の途中で、たまたまここに来ただけなのよ。
 旅なんだから、苦労があって当たり前よね。せっかく旅をしてるのだから、いろんなことが、ないよりあったほうがいい。

 託児の仕事はね、やればやるほど『あそこが足りない、ここが足りない』って言われるの。頑張れば頑張るほど、文句を言われるものなのよ。
 前野さんは上のお子さんが大きいから、この10年で金沢の保育がどんなに良くなったのか、知ってるわよね。だけど、若いお母さんにはそれが分からない。私たちにしたら夢みたいに恵まれた環境でも、『もっと、もっと』なの」

このまちの人たちは、このまちのおいしいところは決して渡さない

「前野さんも、きっとこれからいろんなことをするんでしょうね。このまちの人たちは面と向かって反対したりはしないでしょう。『いいね、頑張って』って励ましてくれるけど、表立っては協力しない。そーっと様子を伺っている。行政に認められたとか、都会で評判になったとか、そうなってくると、ぽつり、ぽつりと賛同してくる。
 前野さんも、この金沢で何かしようと思ったら、行政から相談されるようになることをまず目指しなさい。行政から『こんなことできませんか』って言われるようになったら、ようやくちょっと認められたかな。一緒にやろうという人がぽつり、ぽつりと現れる。

 でもね、前野さん。
 このまちの人たちは、このまちのおいしいところは決して渡さない。
 私たちヨソモノは、このまちでどれだけ人の役に立っても、感謝されても、何十年も頑張ったって、いつまでたってもヨソモノなのね。

 だけど、私は旅人だから。
 そういうまちもあるわよねって、自分に託された荷物を背負うだけ。次の出発がいつになるかは分からないけど、それまで私はここにいる。ただそれだけのことなのよ」

わたしにはわたしの『旅』がある

 早いもので、あれから10年近くが過ぎようとしている。
 ご飯を食べたのか食べてないのか分からない、寝たのか寝てないのかも分からない。ただ闇雲に焦燥感と疲労感と、社会に対する苛立ちだけがくすぶっていた日々だった。
 いろんな人とぶつかりあって、ときには文字通り怒鳴り合うことも多かった。
 いまやすっかりその必要もなくなって、どんなことでも話せば分かるか、何を言っても無駄の二択に収まるようになってきた。

 あのときのわたしは、今のわたしをうらやましいと思うだろうか。
 今のわたしは、あのときなりたかった自分とは、残念ながらほど遠い。
 それでもこれがわたしの『旅』だ。

 30年も暮らしておいてなんですが、わたしはいまだに自分がなぜこのまちに住んでいるのか分からない。ただ、このまちは30年の間に劇的に美しく整備され、さらに北陸新幹線が来て以来、人の心もやんわり明るく様変わりしたようである。
 春、川沿いの道を走れば、桜並木の向こうには雪を戴いた山々の連なりが見える。兼六園の重厚な木々は戦禍を知らず、歴史ある建造物やきらびやかな伝統工芸品がモダンアートととけあって、まちのかおりとなっている。人々の物言いは常におっとりとあいまいで、白黒はっきりつけないことで連帯のすそ野を広げる。
 とはいえ、わたしもこのトシだから。
 いつまでも観光気分に浸っていないで、もうちょっと社会的意義とか周囲の迷惑とか考えた方がいいんじゃないのかな、とか、スーパーでひょっこり会ったママ友に「会社ブログ読んだよ」とか言われてうれしくなっている場合か、とか、最大瞬間風速的に自分に厳しくなったりもする。

 何はともあれ、今日のわたしが風に吹かれる旅人ならば、先生のお言葉は沈まぬ太陽なのである。

この記事は、(株)きもちとしくみ主筆 前野芽理が書いています。 コラム、販促記事などの執筆のほか、司会業、セミナー支援も承ります。

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