PTAは違法で不法!? なぜかほとんど知られてないPTA訴訟の判例紹介

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この記事は独白系ライター 松本怜が書いています。

目次

ネットで流布する脅し文句「PTAは訴えられたら負ける」の真実

「訴訟が起きた」までは知ってるけど⋯

「PTAは訴えられたら負ける」
そんな言説がTwitter上で流行っていた時期があった。

―― PTAは全国で『続々と』裁判を起こされている。
―― PTAは『違法』である。訴えられたら負けるのだ。

熱烈に継続的にPTAを批判するアカウントが、こう繰り返し主張していた。
PTAクラスタのツイッタラーの皆さんの中には、この言説を真に受けた人は少なからずいた。
違法不法という字面のインパクト、かつ、それを繰り返し主張する人々のテンションの高さにすっかりやられてしまったPTAクラスタの中には、訴訟リスクにおびえ、拙速な『PTA改革』に走り、自校の保護者との間に無用の軋轢を生んでしまった人さえいるという。

「PTAは訴えられたら負ける」。
本当だろうか?
よもや、実際の裁判のことを知りもしないで、この言説だけを根拠に
「~~なPTAは違法です! だから『PTA改革』をしなきゃいけない!」
と主張している人はいないよね?

というわけで、今回は、この有名な言説の真相を確かめるべく、判例を紐解いてみたい。

十把一絡げに「PTAは」と語っていいのか問題

その前に、まず真っ先に、この手の言説で気になるのは、「PTAは」という主語だ。
いくら何でも大雑把すぎる。
全国津々浦々にあるローカルな烏合の衆たるPTA(@前野芽理)。小学校だけで約2万、中学校は約1万、これに高校を加えたらもっとたくさんあるわけで、それらのすべてにPTAがあるとは限らないものの、かなりの数になるわけだ。
学校種も違えば土地柄も違う。そこに集まる子どもや保護者の特性も千差万別であるにもかかわらず、なぜゆえそれらすべての団体を「PTAは」という主語で『違法』と決めつけられるのか。見たんかい!

ネットで見かけただけの他者・他団体を「違法」と断じていいのか問題

「いや、すべてではない。『違法』行為を繰り返す単PやP連、役員個人が悪いのだ」
そんな主張もあるかもしれない。
そもそもそれを言う人が、いかなる資格があって一個人が任意団体や個人を「違法だ」「人権侵害だ」と断定しているのかという問題もさることながら、特定の団体の書類を無許可でインターネットにアップし、特定アカウントを陰に陽に名指しして、ツイートやブログ記事で「違法」と断じて発信するのは、果たして適法といえるのか。
※単PやP連…PTA業界用語。
単P=単位PTA(学校単位のPTAのこと)
P連=自治体単位のPTAの連合体(○○市PTA協議会、○○県PTA連合会など)

わが子が通う学校に存在するというだけで、やりたくもないPTAに巻き込まれ、理不尽な苦労を重ねる人たちのご心中を思えば、ネットで飛び交うPTA成敗みたいな文言に溜飲の下がるのは致し方ないと筆者は思う。

だいたいが、いかなるPTAであれ、希望もしてない保護者に対して、やれお当番だの役員だのに強制的に巻き込むなんて、違法どうのという前に、人としてやっちゃいけないことだよね?
学齢期の子を持つ保護者なのである。
家庭の事情もある、仕事の都合もある、子どものころからツルむのがどうにも苦手という人だって人の親にはなるのである。
それら個人の一身上の都合をまるっと無視で「全員やってもらってますから」ってあんたら国家権力ですか。戦時中みが強すぎる。

だがしかし、しかしですよ。
自校PTA憎しの気持ちのままに、裏も取らずにインターネット情報をうのみするのもどうだろう。
ネットの声に背中を押され、身近な人に「違法者!」敵意を向けてしまって、本当にいいのだろうか。
いいのだろうか、というのは、良い・悪いのことではなくて、「あなたの生活大丈夫」という意味合いの心配である。
オメーに心配されたくねーよという読者の声が聞こえてきた気がしなくもないが、ダメダメ保護者の筆者でも、遠くて素朴な誰かを案ずる権利ぐらいはたぶんある。

PTAの『きもち』と社会の『しくみ』

たとえば、
「PTAが非会員の子どもにだけ記念品を渡さない、または実費を請求することは子どもに対する差別にあたる」
という意見がある。よくある。
どこにあるかというと、筆者の知る限り、インターネットでしょっちゅう見かける。『PTA』と検索するとザクザク出ててくる。
(ちなみに、リアルでほとんど見聞しない。おそらくそれは筆者の引きこもりがちなライフスタイルのせいというより、このような意見がうちのPTAでは少数派だからかと思われる)。

裁判の判断基準は、一般人が感じる「かわいそう」と同じではない

これだけ見ればと、たしかに子どもがかわいそうだし、法律上の問題があるのでは?といいたくなるのもむべなるかな。
だが、裁判で判断の基準になるのは、我々一般人が感じる「かわいそう」とは異なるものだ。
今回は実際の判例を通して、本当に「PTAは違法」かどうか、読者の皆さんと一緒に考えてみたい。

堺市私立中 保護者会訴訟のてんまつ

何年もPTA界隈にいる人は、「堺市私立中・保護者会訴訟」と言えばピンとくるのではなかろうか。当時は一部メディアでも取り上げられていたので、目にした人もいるかもしれない。
その上で、この訴訟の結果を知っている人はどれくらいいるだろうか?

PTA裁判の判決結果は、なぜ大っぴらに語られないのか?

この訴訟が行われていた当時、Twitter上のPTAクラスタの中では大きな話題となった。
某PTAジャーナリストもこの訴訟に触れた記事を出していた。
だが、判決結果を報せる記事は、現在ほとんど出回っていない。
それはいったい何故なのか?

この「何故」については、筆者は言及しない。あくまで推測の範疇になってしまうため、そこは各々のご想像にお任せしたい。

始まりは謎の訴訟 ―PTA退会に伴う会費返還―

ことの始まりは平成26年。今からおよそ6年前に遡る。
大阪府堺市にある私立の中高一貫校に子どもを通わせる保護者(以下A)が、当該私立校の保護者会を相手取り、大阪府の堺簡易裁判所に、保護者会の退会における会費(必要経費を差し引いた残額)の返還と、不法行為に基づく損害賠償を請求する訴えを起こした(堺簡判平成26年9月19日平成26年(ハ)632号)。
民法709条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

実はこの訴訟、とても珍しい判例となっている。
結論から言うと、結果は原告側、つまりAの勝訴となった。しかしながら、訴訟にかかった費用は、その全額を原告Aが負担するものとする判決が下された。
不思議に思わないだろうか?

「裁判に『勝った』はずのAが、なぜ訴訟費用を全額負担するのか?」と。

その答えは、ひらたくいうと
「起こす必要のない裁判を起こしたから」
である。

起こす必要のない裁判

まず、「保護者会費の返還請求」というタイトルにもあるように、Aは当該保護者会を退会している。
それに伴い、保護者会サイドは会費の返還をしたのだが、この際「年度途中の退会であるため精算が難しい」との理由から、Aに対し当該年度分の会費を全額返還した。
しかし、Aはそれを丸ごと返送し、そののちに上記の訴訟を起こした。

筆者は思う。
……意味わからん。

なぜこんなことになってしまったのか?
その原因のひとつは、この裁判が本人訴訟により行われたことにもあるのではないかと筆者は推察する。
民事裁判には、刑事裁判と違い代理人弁護士を立てずに訴訟を起こせる『本人訴訟』というシステムがある。
読んで字のごとく、当事者同士が直接裁判を争うことになるのがこの本人訴訟だ。

この裁判では、被告(保護者会)は会費の返還については争う姿勢を見せておらず、その必要性について全面的に認めている。
不法行為についてのみ否認したそうだ。
そして、堺簡易裁判所は、会費返還について当事者間の争いがないことからAの会費返還要求を認める判決を出した。
被告側が否認した不法行為については、「判断する必要がない」とされた。

裁判でPTAに『勝った』はずの保護者Aが、訴訟費用を全額負担する理由

事の経緯を考えれば、Aが計算した金額を保護者会に伝えるなり、必要経費分を返還するなりすれば事足りたはずだ。保護者会に会費を返還する意思があったのだから、わざわざ突っ返してまで裁判を起こすような話ではない。
そのため、「提訴する必要があったのか自体に疑問が生ずる」として訴訟費用は原告側が全額負担するようにとの判決に至ったのである。

法律の専門家があいだに入って行われる裁判とは違い、時には完全な素人同士の争いとなるため、このような無理筋めいた争点がぶち上げられてしまったのではないか。あくまで筆者の推察だけれど。

以上が、本日のメインテーマ、巷で言うところの『堺市私立中学コサージュ裁判』の前に起きた訴訟である。

PTAは『裁判で負けた』のか?

それでは、いよいよメインテーマに入る。
果たして、PTAは本当に「訴えられたら負ける」のか。
そして、その脅しに確固とした根拠はあるのか。

二度目の訴訟―堺市私立中学コサージュ裁判―

平成29年、堺簡易裁判所に当該保護者会を退会したAから新たな訴えが提起された
保護者会の退会後、Aが非会員であることを理由に卒業式の記念品が受け取れない等の不利益が生じ、精神的苦痛を受けたとして、保護者会と当該私立校の事務長を相手取り計2万円の損害賠償を請求したというのが主な内容だ。
なお、この訴訟はその後、堺簡易裁判所から大阪地方裁判所堺支部に移送されている。そのため、判断を下したのは大阪地方裁判所となっている(大阪地堺支判平成29年8月18日平成28年(ワ)1357号)。

訴訟の内容についての説明がざっくり終わったところで、いよいよ一番気になるこの裁判の結果を示そう。

コサージュ裁判は、事実上、保護者会側が勝訴

大阪地裁堺支部はAの訴えに対し、違法な侵害行為は認められないとして、この請求を棄却した。つまり、事実上、保護者会側の勝訴となった。

この訴訟の大きな争点は、

① Aが保護者会を退会したことにより卒業式でのコサージュが配布されず、
② さらに実費負担での注文も拒否して、
③ どのようなコサージュなのかすらも教えなかった。

この三つの事実が、被告(保護者会)からAに対する不法行為として認められるのかにあった。

棄却理由の概要としては、
「Aが主張する人格権や人格的利益が仮に法律上保護されるものだとしても、その侵害されたとされる利益が不明瞭である以上、被告の行為が悪質かつ悪辣であり、損害賠償が正当化される場合にその請求を認められるものと解される。
そして、当該訴訟におけるAの請求は、被告がAの子どもに対してコサージュを配布する義務を課すものとしているが、保護者の団体である被告が他人の子に対してその義務を損害賠償という形で強制されるべきものではない
そもそも、Aは自らコサージュを用意して子どもに渡しているので、Aが主張する損害の前提が存在せず被告に違法な侵害行為は認められない。よって、Aの請求が認められるだけの理由がない」
というものである(担任教師が被告にコサージュの概要を聞き、それをAに伝えたことで、Aは自分でコサージュを用意した)。

判例に学ぶ、任意団体の『任意』とは?

この判決を受け、Aは「実費負担の申し出を拒否したことは、Aの子どもに対する差別にあたり、憲法14条・民法90条・教育基本法4条に違反する」として控訴した(大阪高判平成30年1月25日平成29年(ネ)2223号)。

その構成員でない者が任意団体に「平等な扱い」を求めることの是非

しかし、この控訴を受けた大阪高等裁判所は、
Aが保護者会の構成員としての地位を失った以上、保護者会側にはAの申し出をすべて受け容れる義務はなく、保護者会が任意団体である以上、構成員の子どもとAの子どものあいだで取扱いに差異が生じるのはやむを得ないところを、被告は学校にコサージュの仕様を伝えてAが用意できるようにしたのだから、被告がAの子どもを差別したことにはあたらず、被告の一連の行為がAに対して保護者会への加入を強制するものとも認められない」
として、平成30年にこれを棄却している(「 」内は筆者による要約)。

さて、TwitterでPTAに一家言お持ちの一部識者の界隈では「あくまで任意団体なのだから、学校で活動する以上子どもの取扱いに差をつけることは許されない」との主張が日夜繰り返されている。
だが、大阪高等裁判所は「あくまで任意団体だからこそ、取扱いに差が出るのはやむを得ない」と言っている。
さらに、保護者がコサージュを用意したのだから、保護者会が配布しなくてもそれは『子どもの不利益』にはあたらないとしている。

つまり、いまだにPTA界隈で言われている「卒業式で子どもに差をつけるのは不法行為である」という主張は、さかのぼること2年も前に裁判所によって否定されていたわけだ。

判例は判例、どうでもよくはありません。

だがしかし、あくまでこれはひとつの判例に過ぎない。この判例ひとつとって「すべてのPTA(保護者会)が絶対に法的な問題をはらんでいない」とはならないので、そこは注意していただきたい。

当然ながら「判例はあくまで過去の判決に過ぎない。こんな非人道的な判例なんて踏まえずに、オレらはオレらの道を行くのだ」という威勢のいい人もいるだろう。
きもちとしては「そうですよね」といいたいところであるけれど、その態度って法治国家の一員としてどうなのだ。

注釈1: 判例とは
「先例としての価値を有する裁判を判例という。類似した事件についてある裁判所が下した判断が同一のまたは他の裁判所が後に判断するに当たって参考になることは当然であり,弁護士や当事者本人が裁判の予測を試みるに際して重要な資料となる。類似の事実関係について類似の判決が出ることは,法の安定のために重要であり,法の下における平等を求める市民的理念や裁判の予測可能性を求める企業的要請にも合致する。この意味において,近代法の下では,先に行われた裁判は多かれ少なかれ,後に行われる裁判に対して拘束力を持つ」(世界大百科事典 2版より)


今回、高等裁判所でこのような判断が下されたということは、上記の注釈にあるように、法の安定、法の下の平等を求める市民的理念から勘案するに、今後の同様の裁判においても相応の拘束力を持つと思われる。

注釈2: 控訴審時の根拠条文
民法 第九十条 
公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする
憲法 第十四条 
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(以下略)
教育基本法 第四条 す
べて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない

ネットの煽りに踊らされた人々のリアル

ネットと現実、社会のギャップ

保護者Aは、なぜ二度の裁判を起こしたのだろうか。
残念ながら、この問いに対する答えを、筆者はインターネットの海から見つけることができなかった。

こじれる前に、何とかならなかったのか

もしかしたら、当該保護者会にはAさんから見て看過できない正すべき慣行があったのかもしれない。
もしかしたら、Aさんは保護者会本部役員や学校と話し合いをしようと粘り強く試みたのかもしれない。
もしかしたら、Aさんは他の保護者会役員や学校側との意見の違いで人間関係が膠着し、保護者ライフそのものに大きな苦痛を感じるようになったのかもしれない。
一つ目の会費返還をめぐる裁判だって、Aさんが「子どもに係る経費はちゃんと払うので、子どもを差別しないでほしい」と申し出たにもかかわらず、突っぱねられたのかもしれない。その先にあったのが、二度目の裁判だった可能性だってあるだろう。

はたまた、Aさんが独特な社会規範意識の持ち主で、慣例的に許されてきた保護者会のもろもろがどうしても許せず、ドンパチやってしまったのかもしれない。

事情のほどはよくわからんが、兎にも角にも、こんなことになる前に大人の対応が双方の折り合いがつかなかったことだけは、どうやら事実のようである。

裁判は、気に食わない誰かをひっぱたくためのポリコレ棒ではない

訴訟を起こしたからといって、これすなわち被告に法的な責任を問えるとは限らない。
原告側に絶対的な正義が認められるわけでもない。
訴訟というのは、公的に自分の正義を知らしめるために存在するものではない。
当事者間のみでの解決が難しい場合に、第三者にその判断を下してもらうためにあるのだ。
であれば当然、自らが望んだ結果にはならないこともあるし、素人が「子どもがかわいそう」と言ったところで法律はすべからく平等という原則に変わりはない。

社会正義にかこつけて他人の汗を消費する

というわけで、筆者は思う。
この裁判、当事者のリアルを知らん他人が、勝手にレジェンド化していいの?
ネットで気炎を上げる人々が、「PTAは訴えられたら負ける」という自説の論拠として安易に使っていいものか?

ネット正義と子どものリアル

当該裁判がインターネット上でPTAの悪行を正す鏑矢のように扱われ、どんなに称賛されていようとも、それはそれ。
裁判沙汰に巻き込まれてしまった子どものリアルは一体どうなったのか。
多かれ少なかれ、Aさんのお子さんの身辺は変わってしまったことだろう。

無責任なアドバイスに従うことは自己責任か

先述したように、筆者にはなぜ保護者Aが二度の裁判を起こすに至ったのか、知る由もない。

もしかしたら、Aさんは自分自身の頭で考えたかもしれないし、ネットかリアルのお友達から「そんなPTAは違法だ。裁判を起こしたら勝てる」とささやかれたのかもしれない。

真相はやぶの中。しかし、これだけは断言できる。
「PTAは訴えられたら負ける」とネットで喧伝されている声に背中を押された人が、自分の子どもの通う学校のPTAに対していかなる行動を起こしたとしても、その結果をネットの向こうの仲間たちが一緒に背負ってくれることはない。

惜しみない「いいね」とチアフルなリプライ。
それが彼らの精一杯だ。

煽るだけ煽って「その後」にはダンマリを決め込むジャーナリズム

ネットの声に扇動されて、リアルで大暴れしてしまった人や、それに巻き込まれた子どもに対して、彼らは言うのかもしれない。

「胸を張っていればいい!」と。
だが、そう言えるのは、しょせんあくまで他人事だからなのである。

学者だ、教授だと肩書きを前面に出してPTAは違法不法と民衆に吹き込む人も、PTAジャーナリストと名乗り、コミュニティづくりにうとい読者のある種のツボを刺激して、PTAへの義憤を煽り立てる人も、それが原因で彼らのフォロワーに『何か』が起こったとしても責任なんざ取っちゃくれない。

良くてせいぜい「あなたの犠牲は無駄にしません」と、毎年夏になってテレビから流れてくるあれみたいなメッセージを虚空に向けて放つか、悪ければ「ほら、こんなに苦しんだ人がいる。やっぱりPTAは悪いんだ!」と自らの説の補強に使うところだろう。

煽りではなく議論の喚起?「だけど私は悪くない」

「PTAが訴訟を起こされた!」と不安を煽った皆さんは、その結果までちゃんと伝えろと筆者は切に言いたいのである。無責任にもほどがある。

毎日新聞は、有料ながらちゃんと記事にしていた。

当事者じゃないから、遠い他人の出来事だから、言いっぱなしのままであっても大して困りはしないのだろう。
だが、PTAの現場にいる保護者たちの多くは、法律的な知識の少ない素人である。
そんな彼らがPTAを変えたいと願うあまりに、無闇に法律を振りかざすことの危うさは、真にPTAの専門家ならばおのずとわかることだろう。

とはいえ「裁判結果を報じない」のは、それこそ違法じゃありませんからね。
「私は全然悪くない。議論があるのはいいことでしょう」と、きれいさっぱり前を向いたとしても、責められることではないだろう。
なんなら、また一人PTAに苦しむ人のネタが増えたぐらいにほくそ笑んでいるのかもしれないけれど、それとて他人のなりわいである。倫理的にはどうかは知らんが、遠い空から違法不法ととがめることはできないのである。

卒業式コサージュ問題に対する筆者のきもち

最後に、この判例を読んだ後の筆者のきもちを書いておく。

ここまで書いてきたことは、あくまで「裁判所の法的な判例」についてだ。筆者が「児童の取扱いに差をつけても構わない」と考えているわけではない。法的な観点から見ると、この判断は仕方のないものであると感じる。

それが『法律』というものだからだ。

先ほども言ったように、法律というものは、基本的人権のもとすべからく平等なのだ。我々の目から見て、どちらかが好ましくない行為をはたらいていたとしても、それによりもう一方が優遇される、なんてことはない。

大人の正義感のとばっちりを食らう子どもたち

しかしながら、筆者の個人的な感情のままに言わせてもらうのであれば、「どんな形であれ、子どもに嫌な思いをさせるのはやめようぜ」だ。
これは、PTAの構成員だけでなく、PTA問題にかかわるすべての人に対して言いたい。届くかどうかは自信がないが。

どんなに理想を掲げようとも、現実問題、保護者同士のいざこざが起これば、ほぼ間違いなく子どもが巻き込まれるのだ。
大人の揉め事のせいで、せっかくの卒業式でつらい思いをさせるのはしのびない。最後の思い出となる式典なのだ。子どもたちには笑顔でのぞんでもらいたい。

いくら自分が正しいと思っていようとも、大人の理想の実現に無辜の子どもを巻き込むことは、筆者は絶対にしたくない。

「子どもたちのために」とは何か

「子どものため」とは具体的に一体何をすることを言うのだろう。
周囲の人に迎合し、事なかれ主義を貫くことばかりが「子どものため」とは限らない。
かといって、「子どもたちのために」を隠れ蓑にした大人の意地張り合戦は、断固勘弁してもらいたい。
PTA限らずであるが、我々を取り巻く社会には、正すべき事案がたくさんたくさんあるのだ。
では、いったいどうすればいい?
ネットの声もほどほどに、自分の心の声に静かに耳を傾ける。
憎しみでもなく、功名心でもなく、できればなるべくシンプルに、善意の月をときどき見上げて自分の今後の行動を決めていきたく思うのだ。

参考文献

星野豊「論説 PTAの法的地位(3・完)」(『筑波法政』,2018)

この記事は独白系ライター 松本怜が書いています。

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