『自主性』はしんどい。

素敵ルール1『家事は気付いた人がやる』の矛盾

もう20年近く前になろうか、たまたまつけていたテレビで、元アイドルとお笑い芸人という夫婦の夫氏が夫婦の日常生活を語っていた。
ご夫妻は結婚当初、『家事は当番とかじゃなくてどっちか気付いた方がやろうね』と話し合って決めた。
ある日、夫氏がトイレ掃除をした。
妻氏「トイレ、きれいになってたね。ありがとう」
夫氏「気付いとったんかい!」
その番組の数年後、ご夫妻は離婚していた。

「気付いとったんかい!」に返す言葉がない

このお笑い芸人である夫氏の、妻氏に対する「気付いとったんかい!」というツッコミはとても印象的だった。

今でもよく覚えている。
夫氏は、元人気アイドルの奥様が大好きといったご様子。
わたしとしては、幸せそうなお二方をかねがねテレビでほほえましく拝見しており、『家事は気付いた方がやる』っていいじゃん!とも思ってトークを見ていたにもかかわらず、そんなオチ。

お笑い芸人の夫氏は、なおも熱い口調で続けた。
「俺がトイレ掃除をしてきれいになったことに奥さんが気付いたということは、奥さんはトイレが汚れていると事前に気付いていたということだ。気付いていたのにやらなかったということだ」

そりゃそうだよね。
たしかそのあと
「『ありがとう』って言われても、俺がやったと気付いてもらえた嬉しさよりも、奥さんはトイレが汚れていると気付いていたのに掃除をしなかったと分かって腹立つ方が大きい。トイレ掃除やっとるの、俺ばっかりやないかい」
みたいなことをおっしゃっていたような。

この夫氏の言い分は至極ごもっともだとわたしは思う。だがしかし、同時に「じゃあ、どうしろと?」とも思う。

『家事は気付いた付いた人がやる』は『ノー感謝』とセット

『家事は気付いた人がやる』というルールの究極は、相手に何かをしてもらってもお礼を言わない世界である。
トイレが汚れていると気付いた人が、常に真っ先にトイレ掃除をする。
それはとってもいいことだ。

だがしかし。
家庭という共同体の維持活動を率先して行っても、誰にも気付いてもらえない。なんなら感謝も言われない。汚れていると気付かなければ、きれいになっても気付かない。

ちなみに別の番組で、妻氏のほうも夫婦の日常を語っておられた。
「1日1本樽生を開ける。テレビを見ながらトットットッとビールをグラスに注いで飲む。楽しい。夫がいたら誘って一緒に飲む」
往年のアイドル時代をほうふつとさせる、屈託のないキュートな笑顔であった。トイレ掃除の話と併せると、なんとも言えない気分ですけど。

ちなみに、樽生ってこんなやつ ↓

離婚に関しては、特にどうとも思わない。必要に応じてライフスタイルを変えるのは悪いことではないですからね。
ただ、あのお二人の暮らしを支えるルールとしては『家事は気付いた人がやる』は、少々現実にはそぐわないものだったのかもしれない。

素敵ルール2『やりたいことだけやる』の罠

これまた随分前だが、イケメン俳優とセクシー系美人女優という絵にかいたようなご夫婦がいた。
結婚発表の記者会見で雛壇に並んだお二人はそれはそれはお美しくて、ほぼほぼすべての人類が互いの文化文明を超えて「アツアツですね」と察するに余りある熱愛ぶりであった。
夫氏の方は幼少期家庭に恵まれず苦労した人で、家庭運営に対しては並々ならぬ意欲があった。
その記者会見か別のトーク番組か忘れたが、夫氏は、
「僕は彼女に『僕は家のことをなんでもする。だけど、それを当たり前だと思わないでほしい』と言った」
と確かな口調でおっしゃっていた。

そのご夫婦は、長年いわゆる「理想の芸能人夫婦」として君臨し続けていた。
妻氏の方はほんとに家事をやらず、子どものちょっとした世話ぐらいしかしなかったそうだ。夫氏はブレることなく「妻には『やりたいことだけやればいい。だけど、僕がいろいろやってることを当たり前には思わないでね』と言っている」とのこと。

危機感や使命感が強い人ほど余計めに背負う

結局そのご夫婦も離婚してしまった。
離婚するかしないかぐらいのタイミングで、元妻氏は某ギタリストとの熱愛を写真誌にすっぱ抜かれた。
ギタリスト氏はいたく反省したようで、「火遊びが過ぎました」とコメント。
そのコメントに、離婚したはずの元夫氏は「『火遊び』は交際相手に対して失礼だろう」と力いっぱい反論していた。

その俳優さんは結婚のはるか前、引き笑いが特徴の大物芸人が長年やっているトーク番組で「僕には親がいない。子供のころは施設で育った」とニコリともせず言っていた。
重たい話になったので、大物芸人は何とか笑いにつなげようとしていた。俳優氏は固い表情で「僕には親がいない」と繰り返していた。

イケメン俳優の夫氏は、離婚からかなりたってから、トーク番組で穏やかに語っていた。
「僕は、彼女が家事をやらないことそれ自体は何とも思っていなかった。だけど、彼女にとって、僕が(彼女がやらない)家のことを引き受けることが当たり前になってしまった。これでは家庭は成り立たない」
家庭が、ではなくて、信頼が成り立たない、だったかもしれないし、それ以外の言い回しだったのかもしれない。これまたうろ覚えで恐縮です。

『自主性』とは?

二組のご夫婦は熟慮を重ねられて、お子さんのことも精一杯に考えて、今は別々に生きるという選択を成されたと思う。別れたからには後はシラネという感じでもなさそうだ。
なので、この2名の夫氏の談話に関しては、考えが浅かったとか、我慢や愛が足りなかったとは、わたしにはどうしても思えない。

『家事は気付いた人がやる』
『やりたい人が、やりたいことだけやればいい』
これはつまり「家庭という共同体の運営は互いの自主性にゆだねます」という宣言だ。

『自主性』とはなんだろう。
家庭とは社会の最小単位である。
きもちの通じたカップル(性別は問わない、なんならマンツーマンでなくてもいい)や血縁関係にある複数の人間が、支え合って助け合って、一つの生活の場を維持する。
その営みには自主性が不可欠である。暮らしにまつわる雑多なあれこれを、いちいち何でも取り決めてからでないと動かないようでは生活が回らんよ。特に赤ん坊の世話なんかの場合、周囲の人の自主性なくば、赤ちゃん死んじゃうから。
かといって、何でもかんでも自主性まかせでうまくいくほど、どうやら甘くはないようだ。
たかだか二組の芸能人夫婦だけを見て、これを言ってるのではない。
おたくのムラではどうですか?
実際問題、『自主性』だけでうまく回っていますかね?

エリート村なら『自主性』だけで回せますけど

ここまで言っといて何ですが、実はわたしは『自主性』だけでおおむねオッケーなムラ社会を体験したことがあるのです。

三女・四女を通わせた幼稚園の保護者会は、実に楽しかった。
保護者全員が何らかの係をやるシステムで、総括としての本部役員みたいなチームはあったが、それはあくまで「全体を見る係」という位置づけで、スタンスとして、全員平座の組織だて。

園の教育方針は、「子供といえど本物を」ということで、体験を重んじた手のかかるものであった。先生方は体を動かし、言葉を選び、素晴らしい教育をしてくださった。だがしかし、どうしても手がかかる。そこは保護者も一緒になって子供の学びを支えましょうというものだった。
幼稚園だから、親には十分選ぶ権利があるのである。当然ながら、そんなふうに子供に手をかけてやれない保護者はその園を選ばない。その幼稚園の保護者会は、最初からそこに時間と体力を注ぐことに対してアクセプトな人しかいないムラなのだ。

余談ですが、幼稚園の駐車場は石を投げれば外車に当たる勢いで、医師、士業、中小企業経営者、大学教員、自衛官などが多かった。
時代の流れというのでしょうか、そうそう育児に手をかけることにモチベーションが保てる保護者ばかりではなくなった。
幼稚園経営陣の世代交代とともに、新入園児は年々激減。あの素晴らしかった保護者会も一時は存亡の危機であったわけですが、わたしの代で「そんなにつらけりゃやめちゃいなさい」と投げかけたところ「やっぱりやります」となりました。危ないところでした。
園の教育方針のためにはベストな選択だったけど、経営ことを考えたなら、それがほんとにベストな選択だったのかどうかは、分からない。

凡人村には魔法ワード「なるべく」がよく似合う

思うに、あのお二人の元夫氏が結婚当初提唱ておられたルールを維持し発展させるには、魔法が一つ足りなかったのかもしれない。

「なるべく」

この曖昧な魔法ワードをより積極的に活用すれば、何かが変わったかもしれない。

家事は『なるべく』気付いた人がやる。
家事は『なるべく』僕がやる。

夫婦と言えども能力にはばらつきがある。
いつもいつも先に気付いた人がやる。
いつもいつも無理なくできる人がやる。
これでは、いつもいつも同じ人だけ頑張り続けることになる。
「それでもいいよ、愛してるから」だけで済むほど、人の心はどうやらタフではないようです。
「たまにはきみもやってよ」とさらっと言えて、「うん、いいよ」ってすっと動ける関係性なら、違った未来があったのか。

以上はあくまで家庭ならぬ仮定の話。
実際問題、お二方の実情にそぐわない点は多々あろう。
ごめんなさいね。引き合いに出して。

『自主性』とは「自分たちにとってのベスト」を考えること

昨今ちらほらネットの世界で散見される『自主性』に対するあまりにピュアな称揚には、少なからぬ危うさを感じます。
できれば、その方針を運用するに当たっては、「なるべく」あいまいな部分を残してあげてほしいなと、遠い空から願います。

たった一つのキーフレーズで決めきれるほど、共同体の運営はシンプルではない。
そのフレーズのそのままに理想が実現できると頭ごなしに決めつけていたら、その先に、いったい何が起こるのか。
「ああ、そんなやり方もありかもね」と比喩程度、参考程度に受け止めるかで、共同体の居心地は変わってくるのでしょうね。

その共同体の維持存続が大事なら、というあくまで仮定の話ですけど。

誰もやりたがらないけれど、誰かがやらなきゃいけないこと

「気付いた人がやる」というルールを言い出す人は、えてしてよろず気が利かない。

「やりたい人がやる」というルールを支持する人は、面倒くさがり屋さんである。

自治会・町内会などの共同体運営を純粋に自主性だけで回そうとすると、行き着く先は『いい人以外はお断り』の世界です。
気が利かない人やめんどくさがり屋さんを、それでも大事な仲間だからと笑って受け止められるのは、言われなくてもやる人が多数派なときだけです。
どんなに気のいい人であっても、共同体のどいつもこいつも見て見ぬふりで、自分一人で頑張り続けるのには限界がありますよ。

職場で、家庭で、ご近所で、わたしたちが無自覚にアテにしているのは、やさしさではなく、やさしい誰かの「根性」です。

もう根性に頼らない!

ただし。
いいですか、みなさん。時代はすでに変わったのです。
誰もやりたがらないけど誰かがやらなきゃいけないこまごまとしたお仕事は、お金を払って誰かに頼める時代はすでに来ているのです。
小規模学会・研究会、PTAや町内会レベルの事務ならインターネットのやり取りだけで代行可能になりました。
誰かがやらなきゃいけないと張り屋さんのあの人が静かに背負い続けた荷物は、そろそろ下ろしていいのです。
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この記事は、(株)きもちとしくみ主筆 前野芽理が書いています。 コラム、販促記事などの執筆のほか、司会業、セミナー支援も承ります。

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