『善意』という名の暴走列車

この記事は独白系ライター 松本怜が書いています。

道徳的な意味合いでの『善意』

善意とは、相手を思いやる心や、好意を指す。

筆者は「善意」と聞くと、「法律上の効果を生じる一定の事実を知らずに行なった行為」を思い浮かべてしまうのだが、今回は先にあげた道徳的な意味合いでの善意のお話だ。

すごくいい人なんだけど、善意が斜め上に行ってしまっている。

そんな人を見たことはないだろうか。

本人は善意のつもりでも、周りがそれにより困惑してしまったり、振り回されてしまったり。
悪意でやっているわけじゃないことは、みんなわかっているけれど、いつしか周囲に距離を置かれて孤立する。そんな人だ。

善意はときとして、悪意よりもタチが悪い。

周りにどんな印象を与えていようとも、本人は「よかれと思って」やっているからだ。また、それを「善いこと」だと思っているがゆえに、受け入れられない原因を自分以外に求めてしまう。重症になると、「善いことをしている自分」に酔って、斜め上の善意が暴走してしまったりもする。

基本的には『いい人』だけど

今回取り上げたいのは、この「善意の暴走」だ。

この手の人の厄介なところは、「基本的にはいい人」という点だ。少々思い込みが激しかったり、理想が高すぎたりするだけで。
そして、その思い込みや理想を、無意識のうちに他者に押し付けてしまいがちでもある。極端な人だと、持論に一部でも反論されると、それを『悪意』と受け取ってしまう。

これまた極端な例だが、「方向性的には良いと思うが、こういう課題もあるのではないか?」と指摘された際に、「お前は間違っている」と、相手の意見を吟味もせずにはねつける。
「あなたなら、私の善良なる理想を叶えられる! あなたにはその力があると、私は信じてる!」と、自らの理想を一方的に押し付ける。

中には、その理想すら、誰かの思想をかき集めてガワだけ固めた、あんこの入っていない饅頭みたいな人もいる。その理想を形づくるのが「他人」であるから、その人自身がどこにいるのかわからない。正直、薄気味悪さを感じることもままある。
何しろ一貫性がない。情緒不安定かというくらい周りに影響される。そのくせなぜか、自分が「いい人」であり続けるためのパフォーマンスに余念がない。ハタから見れば、単純に理想を擦りつけてるにすぎないなのだが、本人は「周りの気持ちを優先してやっている」という体裁を頑なに貫こうとする。

そして、こういう人ほど、パンでも作るかのごとく謎の理屈をこねくり回していたりもするのだ。

もはや野望とも言えるほどの理想を覆い隠すための生地として。
「これは善いことだから、実行するためにどうアプローチをしたらいいか?」が大前提で、「本当にそれが周りにとって善いことなのか?」は考える余地を設けない。
基準はすべて、どこからともなく植え付けられた『善意』だ。

PTA界隈で激突しあう『善意』たち

筆者がTwitterで見かける、いわゆるPTA界隈には、この手の人々が非常に多い

たしかに事実とは異なっているかもしれないが、じゃあ「PTAは親の義務」と思っている人たちは『悪意の人』なのかと言われたら、そうとも言いきれない。この手の問題において、話をややこしくする原因のひとつが、「どちらも善意である」ということだ。

しかし、先ほど例にあげたように、自らの思想や行いを絶対的な『善』であると思い込んでいる人は、それ以外を『悪』と捉えてしまう傾向がある。

PTAの活動を「他人に強制すること」は、その団体への入会が任意である以上、受け入れられない人も多くいる。

たが、「子供が世話になっているから、何か手伝えることがあるなら協力したい」という気持ちそのものは『悪』とは言えないのではないだろうか。

それだって立派な『善意』だ。

そのもう一つの『善意』をより多くの会員保護者と共有・実行するための方策として、例えばPTAには一子一役や旗振り当番みたいな全保護者向けお当番型ボランティア活動があったりするわけだ。
この一子一役、PTA界隈ではいまや「強制」のシンボルみたいになっている。
ポイント制なんて、もはや悪の権化のような扱いだ。

とはいえ、PTA界隈の中には、一子一役をやりたい人の気持ちを大切にして、かつ当番を強制しないよう工夫しながら運営に取り組んでいる人もいるかもしれない。
『暗黙のルール』的なオフィシャル化されていないやり方が根付きやすいPTAの性格を逆手にとって、形式上は一子一役としておき、活動が難しそうな人は内部でさりげなく弾く。
という方法を取り、平等を求める人を刺激しないようにしながら、その他の会員に無理を強いないように配慮している人もいる。

それを表面だけ見て「活動の強制を容認するやつは、活動を強制してるも同然だ!」と声高らかに批判するのは、たとえそれが善意に基づく抗議の声であろうとも、自身の価値観を一方的に他人に押し付けるという点において、彼らが批判の対象とする『ブラックPTA』と大して変わらないのではないか?と。

ネットの無責任な肯定が、リアルの孤立を招く

このような『中立を許さない人』は、自分の意見を押し付けたい人であると筆者は思う。また、『どちらかの意見に完全にのまれてしまう人』は自分がない人だと筆者は感じる。

あくまで筆者の印象にすぎないので、実際は違うかもしれないが⋯

筆者は、Twitterを利用するようになってから、この手の人にしばしば遭遇するようになった。

リアルな人間関係に比べ、よくも悪しくも遥かに広い範囲の人と関わることができるためではないかと思う。

筆者のような『大人気なさすぎる大人』もなかなか珍しいので人のことはあまり言えないのだが、Twitter上では、同じような価値観の人たち同士で容易に関わりあうことができる。仕事や学業、その他リアルな生活を営む上で求められる「対人関係の我慢」はする必要がなく、「自分の世界」に入れる人間を、主観のみで選ぶことも可能だ。

たくさんの人(といっても、全体から見たらほんの数%以下)にもてはやされて、妙な自信をつけてしまうと、単に別の角度から意見を言っただけという人に対して「自分が正しい・お前が間違っている」とわざわざ言いに行く、という行動を 取ることもある。

ネット上にいる他人なんて、ほとんどが無責任なのだ。

「善意の人」をけしかける連中にしても、「実際にそうなったらいいなと思ってる人」もいれば、「現実的ではないけど面白そう」や、「自分は責任持ちたくないから、この人が代わりに憂さ晴らししてくれるならラッキー。いいぞもっとやれ」な人もいる。

ましてやTwitterなんかは匿名性が高い。
リアルでは言えないようなことでも、ネット上なら平気で言えるという人も少なくない。
リアルで同じことをすると、身近な人からのさまざまな反応をダイレクトに浴びることになる。
その点、Twitter上であれば、好意的な反応を示してくれる人以外を意図的にシャットアウトすることもできるし、いつでも『理想の自分』でいることだってできる。そのため、自分の発言に対する感覚が麻痺してしまい、悪質な陰口や嫌がらせをしても、良心が痛まなくなってしまう。という事例も多く見てきた。

でも、本人たちはそれを『善意』だと思っているのだ。
「相手が間違っているから、正してやっている」と。

そして、どんどん他人と自分との距離感が曖昧になり、勝手に過度の期待を寄せては、相手が自分の期待どおりに振る舞わないと「裏切られた」と騒ぎ出す。
「自分は、他と違って周りの意見を重視して行動している」と、表面上は取り繕っていても、発言の節々から「自分の言うことを聞け」という支配感情が透けて見えている人もいる。

筆者の経験上このタイプの人は、ことがうまく運ばないと、その原因をすべて周りに擦りつける。「自分がやろうとしていることは、絶対的に正しいことなのに、あいつらはなぜ理解できないのか」と。そしてその愚痴を、周りの取り巻きたちが全面的に肯定して持ち上げる。これを繰り返していくことで、「自分を否定する奴は全員悪だ!」という、完全責任転嫁人間のできあがりである。

正直、無責任にけしかける連中が、その人をどうしたいのか?と思うことも多々ある。

自身と違う価値観に出会い、迷いが生じるたびに「違う。あちらはあなたを騙そうとしてる。あなたはそのままでいい」とささやかれ、どんどん考えを一元化させていく。

そうしてネット上でこじらせすぎてしまった人は、ネットで仕入れた『正しき方策』をリアルで実行してしまうことも少なくない。
しかし、極端すぎる価値観を育てられてしまっているため、言葉や態度に角が立ち、周囲からさらに距離を置かれるなんてことも珍しくないのだ。

取り巻きたちは、こういった人を孤立させるのが目的なのだろうか

リアルな社会は二元論では変えられない

リアルな社会は、勇者と魔王のように単純なつくりにはなっていないし、決まった手順を踏めば攻略できるようなものでもない。
『他人をコントロールしてけしかける奴』は、「自分では実行できる度胸がない」か「実行したけどうまくいかず、恨みつらみだけをのこして挫折した人」だ。
そんな自分たちを「善良な市民」と位置づけ、新たな勇者が現れるのを待つ。
そして、お眼鏡にかなう勇者が現れると、前線に出る必要のない後方支援や、物語を進行するためのフラグを立てる村人にポジションを変え、勇者の行動をコントロールする。

そして、勇者が『魔王』を倒したあかつきには、「自分たちの行動が勇者の力となったのだ」と声高に叫ぶ。

逆に、勇者が潰れてしまった場合には「真の勇者ではなかった」と勇者に全責任を押し付けて切り捨てる。

なんともお手軽な上に、このうえなく卑怯だ。どうせ持ち上げるなら、実行においての責任は自分が取ると宣言した上で、具体的にうまくいきそうなアプローチ方法を提案してあげればいいのに、なぜ「あなたは悪くない!間違ってるのは向こうなんだから、ゴリ押しでいい!」なんて非現実的なことを繰り返すのか。

その結果、何度も同じ失敗を繰り返してるのに、いまだに続けるその根性たるや。

むやみに肯定するだけじゃ物事は進まないと、なぜ気づかない?

それほどに馬鹿なのか。それとも、あの辺の人たちのあいだでは、米粒ほども異議を唱えてはいけないというルールでもあるのだろうか。というくらいには、全肯定の声で溢れている。

筆者も、相当な頑固者で自我が強い人間であるし、自分の考えを否定されたら気分が良くないのもわかるが、たとえそれが『善意』であったとしても、他人に押し付けているかもしれないという自覚は常に持っておきたいものである。

一方的に擦り付けて快感を得るというのは、自慰行為と変わらないし、場合によっては痴漢レベルに迷惑なことであると、早めに気づいてほしい次第だ。

この記事は独白系ライター 松本怜が書いています。

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。